ギャラリストのよしなごと

色違いのリュックサック

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”あれっ、ちょっと違うよな。。。”と引っかかってしまった。

人としての感覚の鈍さが気になってしまう出来事があった。

 

ここのところ立て続けに日本からのお客を迎えている。

日本の空気や物腰を纏った彼らと話をすると、”懐かしい”という言葉が陳腐に聞こえるほどに、私の気持ちの中に”日本”の存在が怒涛のごとく流れ込んでくる。

彼らの洋服、持ち物、色の取り合わせ、身振り手振りの仕草。。。当たり前のことなのだけれど、彼らの100%が日本であることに、私の五感がピリピリと反応してしまう。

 

おかしなことに私が日本へ帰っても、こんな気持ちを持つことはない。

日本の地に足を下ろした途端、空気も人も色も形もみんなドイツと違っていてまるっきり日本なのだけれど、その中にストンと入ってしまうと、また別の感情が押し寄せてくる。

自分が日本を離れて随分と経って、もうすっかり余所者になってしまった物悲しさがより強く胸に去来するのだ。

 

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ギャラリーオーナーが面白い話をした。

彼はお父さんがイタリア人でお母さんがドイツ人、生まれはイタリアだ。

子供時代を過ごしたイタリアでは”ドイツの芋野郎”とからかわれ、ドイツにやってきてからは、”イタリアのスパゲッティ小僧”と冷やかされたそうだ。

どっちつかずの自分のアイデンティティに子供ながらに、”自分はどこの地に属しているのだろうか”と思っていたらしい。

私は日本人の両親を持った純粋な日本人であるが、それでもドイツで長く暮らしてきて、自分の中に確固としてあった”日本”がドイツという川の流れに飲まれてアップアップしているような危機感を感じることもある。

 

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日本からやってきたお客は、ドイツに来る前にポーランドアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れたのだという。

私はアウシュビッツには行ったことはないのだが、ミュンヘンからほど近いダッハウ強制収容所のことをすぐに思い出した。

 

「巨大なネガティブなエネルギーが今尚渦巻いていて、飲み込まれそうなったのではないですか?」

 

私がダッハウを訪れたのはもう随分と前なのに、その時のことを思い出すだけでそこで亡くなったユダヤ人たちの怨念を感じて、身体中がガクガク震えてしまうような感覚がが蘇ってきた。

 

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それなのに彼の反応は信じ難かった。

 

アウシュビッツには何もなかったのです。

ただただ広いだけで、説明も乏しく本当に何もなかったから全く感じようがなかったのですよ。

以前ロンドンのホロコースト博物館で色々と見ましたが、ビデオ、説明、写真が豊富で、その時は本当に愕然としましたねぇ。。。

アウシュビッツなどの強制収容所跡はもっと整備されるべきですよ。」

 

人はすでにとても鈍い生き物に成り下がっている、と思ってしまう。

ナチスが作った収容所は、ただ広く何もない所に多くのユダヤ人を詰め込み、人間としての扱いをすることなく、非情にも死へと突き落とした場所だ。

アウシュビッツのあの場所があのまま存在することこそが大事なのではないだろうか。

血と涙、恐怖と不安、苦しみと暗鬱。。。があの地に染み込んでいたはずだ。

何も感じないはずはない。

写真や映像を流してもらわなければ、希望を根底からもぎ取られたユダヤ人たちの叫びを受け取ることができないとは、悲しすぎるではないか。

80年近く前に起きた理不尽すぎる出来事で、命を失った人々の叫びをあの地に立って感じることができなければ、人としてあまりにも情けないような気がしてしまうのは私だけなのだろうか。

 

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今や世界はグローバルになってどんな地へもすぐに旅することもできれば、家に居ながらにして各国の食べ物や物品を手に入れることができる。

だから”自分がどこに所属しているかなんてどうでもいい”、”違いがなければ差別も何もなくなるではないか”と言う人もいる。

もちろん”そんな考えもありかな”と思う反面、それぞれの国が様々に違った色に染まっている方が楽しいなぁと私は思ってしまう。

文化や習慣が違うそれぞれの国を知る度に、”ほぉ!なるほど。。。”と感心できるのはとても小気味好い喜びではないだろうか。

そして何より、文化の違いに感服することで相手へのリスペクトが生まれてくるような気がする。

 

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私は期せずして二つの国に住むこととなり、文化と名のつく荷物を入れた二つの色違いのリュックサックを背負っているが、そのどちらもをも背中からおろすことなく抱えて歩いて生きたいな、と思っている。

 

また死者の国には国籍も老若男女も言葉の違いもないはずだ。

黄泉の国にいる人々の声に耳を澄ませることができる、人としての繊細さを忘れないようにしたい。

彼らの声は私たちを取るに足らない奢りや傲慢から救ってくれるような気がする。

 

久しぶりにギャラリーの中に日本語の明るい声が響き渡る中、私は少し真剣に自分のあり方を考えさせられた。

 

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