ギャラリストのよしなごと

騙された

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人に騙されるくらい辛いものはない。

 

もう時効だからと思うけれど、今思い出してもあの時の唇を噛んでじっと堪えた悔しい気持ちとか、自分で自分を殴り倒したい情けなさが、グワッと心の底からせり出してくる。

 

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あれはもう10年近く前になる列車の中で起きたことだ。

日本の新幹線に例えられるICEと呼ばれるドイツ最速列車に乗っていた時、向かいに座った紳士然とした人に声をかけられた。

確かケルンでの仕事を終えてミュンヘンに帰るところだったと思う。

向かいの紳士はビシッとしたスーツにロレックスの腕時計がキラリと光る、いかにもできるビジネスマン風だった。

浅黒い顔はスポーツマンであることを物語っていたし、何よりもその身なりの良さで私は安心してしまったのだろう。

 

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列車や飛行機の中で声をかけられることはままあるのだが、通常、私は非社交的と言われようとも人間味に欠けると非難されようとも、おざなりの返事をして相手を遠ざけてしまう。

その男性に声をかけられた時だって気が乗っていたわけでもなんでもない、ただ彼の話術が巧すぎたのだ。

 

私はミュンヘンでギャラリーを開いていること、今は出張から帰るところ、そんな話を手短に彼に話した。

彼はそっけない私に対して辛抱強く相槌を打って話を促したり、要所要所でなかなか気の利いた質問を挟んだりして、私はあれよあれよと言う間に彼のペースに陥ってしまった。

 

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それにしても列車の中ってどうしてあんなに特別な空気が流れているのだろう。

日が暮れて暗くなってしまった車内には、物寂しい気配が漂っているからなのか、列車のガタンガタンと規則的に鳴る音と振動からくるものなのか、口をきっちり縛ったはずの気持ちの袋が徐々に緩んでくるような気がしてしまうのは私だけではないと思う。

 

私たちは話し始めて30分もしないうちにすっかり打ち解けて、側から見るともう10年来の友人かのように見えたことだろう。

彼はギャラリーのHPから一つの作品を選びだし、”妻へのプレゼントにしたい!”と興奮したように話した。

私は彼の気に入ったアート作品を、彼は作品代金を持って、数日後に街中のカフェで再会することを私たちは決めた。

 

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数日後、確かに彼は約束通りにカフェに来て私を待っていた。

彼の好んだ作品は小脇に抱えられるほど小さな作品だったので、早速彼に見せると大げさなほどに、”すばらしい!実物で見るとこんなに美しい作品だとは。。。!”とときめく胸を押さえるような仕草をして、私を笑わせた。

列車の中の時と全く同じように、私たちはアートの話や日本のこと、彼の家族のこと。。。次々に話は移り変わっていったけれど、退屈する間を与えないほど良い時間だった。

 

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小一時間話をした後だろうか、私はトイレに立った。

支払いが済むまで席なんて立ってはいけないことくらい重々わかっていたはずなのに、私はそれほどまでに彼を信用してしまっていたのだろう。。。

トイレから帰ってみると、彼の姿はアート作品諸共消えていた。

私の飲みかけのジュースのグラスを重しにして、カフェの請求書だけがそこに残されていた。

グラスの水滴が染みたそのふにゃふにゃした請求書を握りしめて、私は彼からもらった名刺を必死になって探した。

でも。。。

もらっていた名刺に記された会社も電話番号もみんな架空のものだったし、そもそも彼の名前すら嘘っぱちなのだろう。

 

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列車の中で偶然に会ったその時から私は彼のカモだったのだろうか。

あんなに楽しく互いに話をしたのに、彼はその時すでに私から作品を盗むことを頭の中に思い描いていたのだろうか。

私がギャラリーの人間じゃなかったとしても、私から何かを奪うことを企んでいたのだろうか。

思い返すたびに胸が痛み、考えるたびに私の脇の甘さに赤面する。

 

あれから10年近く経っているが、今あの彼はどうしているのだろうか。

列車の中でやっぱりジェントルマンを演じ、よくできたフェイクの腕時計をちらりと見せながら、やっぱり誰かを騙し続けているのだろうか。

 

そしてあの絵はどうなったのだろう。

彼のずるくて狡猾な人生の中で、”妻へのサプライズにしたい!”とのあの言葉だけは本当だったと言ってほしい。

それならば、少しは私の心は救われる。。。

 

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