ギャラリストのよしなごと

医者嫌い

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いつだったか私の医者嫌いについて書いたような気がするが、そもそも病気になるとか不調を訴えるということが私には滅多にないからこそ、医者嫌いが通用するのだと思っている。

そう、こんなに丈夫な体を授けてくれた両親に私は感謝すべきなのである。

もしも私が若いならば、もっと自分の健康自慢を大々的にするところだ。

でももう若いというには無理がありすぎる年齢だから、自分の身体を甘く見ていたらいつしか神様からガツンと鉄拳を振り下ろされて大病を患いそうでこわい。だから私は普段、“私って日本車みたいに滅多に故障しない”とか、そんな思い上がったことは言わないように気をつけているのである。

 

そういえば、昔友人がこんな話をしてくれた。

彼女の娘が小さかった頃、夜中に彼女は体調を崩し吐き戻してしまった。

娘のパジャマや床は汚れてしまって、彼女はすぐに娘のパジャマを脱がせ、床を掃除したという。ふと彼女が後ろを振り返るとほぼ裸で、青い顔をした娘がぶるぶると震えて突っ立ったまま、彼女が床を綺麗にするのを見つめていたらしい。

“私って、本当に冷たい母親じゃない?娘の具合なんかよりも汚れた床の方が気になって仕方がなかったのよ。母親失格とはまさに私のことだわ。”

そう彼女は嘆いた。

確かに娘さんは可哀想だったかもしれない。

でも私たちはそんな本末転倒なことを日常のあちこちで繰り返しているような気がしてならない。

もしも何かが起きた時、咄嗟に動き出すのではなく一回深呼吸でもしてから行動すれば、何が大事で、何をすべきかが見えてくるのだろうと思うが、そんなに利口にできていないのが、人間という生き物なのかもしれない。

”そう、もうそろそろ医者嫌いなんか返上して自分にとって何が大事かを見つめるべきだよ”、そう私の耳にどこからか声が届いたような気がした。

 

今日紹介するのは関野亮さんの花瓶だ。

すりガラスの花瓶に数本の透明なガラスの線が伸びている。

無駄を徹底的に排除したその姿は惚れ惚れするほど美しい。

彼は花瓶に花や枝木を差し込まれることをあらかじめ想定し、自身の持て余すほどの技量を敢えてグッと控えている。何が重要であるか、何を引き立てるのかをよく理解した彼の引き算の思考が見事に結晶した作品である。