ギャラリストのよしなごと

私という存在

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私が日本にいた頃は塾の講師をしていて、かなり多くの数の生徒を受け持っていた。そのせいで塾近郊のスーパーや本屋に立ち寄ると、生徒たちの親や兄弟、あるいは本人達からしばしば呼び止められたものだ。

スーパーの安売り惣菜を物色している時に限って、親たちはよく通る声で私を呼び止める。

“あら先生!お買い物ですか?うちの息子、やんちゃ坊主ですけれど、どうぞよろしくお願いしますね!”と彼女たちは満面の笑顔で私に深々と頭を下げる。

私はひどくバツが悪い思いを抱えながらも、教師の顔を取り戻し、親たちに負けじとお辞儀を繰り返す。

 

当時の私はどんな時にもどんな場所でも“先生”という仮面を外すことができないのがとても息苦しかった。

それが日本を飛び出したいと思う一つの大きな要因になったのは間違いない。

 

でも結局のところ、他人、あるいは社会の中で認識されることによって自分は自分として存在しているように思うと気づいたのはつい最近のこと。

例えば身分証明をするパスポートは他人に発行してもらって初めて有効で、それを持つことで私は私として社会で認められる。

パスポートの有効期限が切れてしまっていたらどうだろう?

私という人間は間違いなく私だというのに、行動の自由もなく、社会生活に大いに支障をきたす事になる。身分を証明するものを失ったというたったそれだけで私という存在が急に頼りなくあやふやなものになってしまうのである。

 

誰かに認めてもらわなくても自称ギャラリストとして暮らすことはもちろん可能だけれど、でもそんなのを私は求めてギャラリストになったわけではないじゃないか、だからもう逃げるのはやめることにする。

ちょっと遅すぎるのだけれど、私はこの歳になってやっと他によって承認される自分の姿に納得し、喜んでそれを受け入れようと思えるようになったのである。

 

今日紹介するのは、瀬川剛さんの作品である。

彼の作品の一番大きな特徴は折りたたみ可能であるということだろう。平面から立体になった時にふわりと浮かび上がる立体に誰もが“ほぉ!”と声をあげる。

平面と平面の組み合わせで浮かぶその立体は手で掬い取れそうに現実感がある。

他に認められることで私自身が明確に浮かび上がってくるのは事実だが、やはりそこには自分の核や信条あってこそなのだ、とこの作品は教えてくれるようである。

 

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