ギャラリストのよしなごと

無用の用

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旅行に行くと、こっちの美術館、あっちの教会という具合に旅先の街を精力的に学ぼうとする人がいる。

それはそれで素晴らしいことだと思うのだけれど、私は旅行くらいは怠け者に徹したい方である。行ったことのない街でも観光もせず、カフェに座って道ゆく人をぼんやりと眺めているだけでも、あるいはどこかの公園で本を読んで過ごすだけでも私は満足なのである。

“そんなこと、家でもできるじゃない!せっかく旅に出たのになんの経験もしないまま終わるなんてもったいない!”と言われそうだけれど、時間に追い立てられることなく、気の向くままに過ごすこの無駄な時間こそが私にとっては旅の醍醐味なのである。

 

無駄といえば、私は最近ちょっと”無駄”とは一体何なのだろうと考えている。

昨年のロックダウン時からずっと私は必要のないものをさっさと処分して家の中をスッキリと片付けたいと考えている。

だが、実は家の中には必要か不要かが極めてあやふやなもので溢れかえっていると思うのだ。

例えば父や母、そして昔の教え子たちからもらった手紙の束は結構な数になる。滅多に開くことのないそれらはもういらないものかと問われれば、手放すことは難しい。それならばスキャンしてコンピュータの中に保存すれば、とも思う。でも手紙をデジタル化してしまうとしてもそれで実物をゴミ箱に放り込むことができるとも私は思えない。

そうした思い出としっかり密着してしまった不要なのに大事な物、そしてさして大事でもないのに必要な物がいっぱいに詰め込まれているのが家ではないだろうか。

 

アート作品ほど日常に不必要なものはない。

それならばアートを切り捨てることができるかと言えば、そうではない。

私たちは生きていくために、家族を養うために、必要不可欠なことを営みながら生きている。そうした必要不可欠な物事の屋台骨を支えているのは実は無用なものであるのではないかと私は思う。

旅の気ままで無駄な時間が私に活力を与え、仕事へのモチベーションを高めるのと同じで、アートの無駄さは私たちの栄養となって支えてくれていると私は考えている。

 

今日は山本太郎さんの日本画を紹介する。

形式的で陰影のないフラットな表現はまさに日本画の特徴であり、パッと見ると古い時代の伝統的な日本画そのものだが、じっくりと見ていくと、その現代的なモチーフに思わず笑みが溢れる作品である。

人の気持ちをほっこりとさせる彼の作品を見るたびに、私は老子の言葉を思うのだ。

不要なものなどこの世に存在しない。

全てのものが意味をもつ、人も物も。

 

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