ギャラリストのよしなごと

役柄を演じる

f:id:keikothings:20210805190538j:plain

 

今朝のこと、洗面所の前のパートナーが大声で何か言っていた。

聞き返してみると、“歳をとってしまったなぁ”と鏡を見てつくづく思ったのだそうだ。

そんなことなら私は毎日鏡を覗き込んで思っている。

昨年から比べると白髪はめっきり増えたし、顔は明らかにキリリとしたシャープさを失っている。でもそんな私の身体的な老化のサインに対して私は寛容でありたいと思っている。

大きく枝を張った老木を見て誰も見苦しいなんて思わないし、使い込まれた古い道具が愛おしいように、人間だって歳を取るごとに人としての味わいが顔や体に滲み出てある意味若い時とは違った美しさを醸し出すと私は思っている。

それにひきかえ問題なのは精神的な老化である。

でも何を持って心が歳をとってしまった、と判断するのだろうか。

私が思うに自分の演じる役柄が自分自身だけになってしまった時に、人はがっくりと老いてしまうのではないだろうか。

 

私の父が亡くなった時、母はこっそりと私に耳打ちした。

“彼がいないというのはやはり寂しさがあるけれど、でもやっとこれで自分だけの自由な時間をたっぷりと持てるでしょう!それにはワクワクするのよね!”

母はそれからというもの確かに一人の時間を退屈することなく、新しいレシピに挑戦したり、漢字のクイズや長編小説に夢中になった。

それなのに、母は会うたびにがっくりと老いていった。

 

私の母は子供たちがいるときは母としての顔を持ち、近所の人との付き合いは社会人として、そして父の前では伴侶として母はその役割を演じてきた。

彼女はそれぞれ違った役柄に対して各々に対応し、心を配ってきたことだろう。しかし年齢が上がるにつれてその役割を一つずつ卒業していき、一番最後まで残っていた妻という役を降りることになった。残ったのは自分自身だけである。そして全ての役割を終わった彼女の心に老いが忍び込んできたのではないだろうか。

 

仕事の重圧がある時、パートナーと口喧嘩になってしまった時、友人の心ない言葉に傷ついた時、私はそんなの全てうっちゃって呑気に一人で暮らしたい、と時々叶わぬ夢をみる。でももし本当に一人になってしまったら、私の精神はハリを失い、老化の坂を下っていくような気がしてしまう。

いずれそういう時がくるのだろうが、それまで私は自分の歩みを止めることなく社会の中にある自分の役割を演じ続けたいと考えている。

 

今日は早川克己さんの初期作品を紹介しよう。

若かった頃の彼の作品には若さゆえの奔放さや力強さが画面から迸っていると私は思う。今まさに脂の乗った早川さんの作品の重厚さや自信に溢れた表現力とは違った面白さに満ちている。

 

f:id:keikothings:20210805190636j:plain