ギャラリストのよしなごと

自分自身

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私は弱い人間だからしょっちゅう神頼みをしている。

アートフェアに参加する時には、寝室のブッダ像を抱きしめて“どうか多くの人たちから私たちのギャラリーが注目を浴びますように!”と祈る。遠距離のお客に繊細な作品を送る際には、“どうか何事もなく到着しますように”と遥か上の空を見上げて祈る。そして、ギャラリーのいく末を、私たちの暮らしの平穏を、健康をという具合に私は毎日何かしらを願っているのである。

断っておくけれど、私は深い信仰心を持っているわけではないし、一生懸命に祈っているその一方で、醒めた私がそんな熱心さに呆れてもいるのだ。

 

よく思うのだが、私の範疇で物事を決められるのは今日の夕食を何にするかくらいのことだ。

良いアーティストだと私が強く信じていても、顧客にその良さが思うように伝わらないこともある。素晴らしい展示をしたくてアーティストと二人三脚で計画を立てても、結果的に私の想像とは違った展示になることもある。そして一寸先の未来も見通せない私は明日起きることさえ何もわかっていないのである。

考えてみればそんな不安定な足場に立っている私はなんて心許ないのだろう。

神頼みしたくなる気持ちも我ながらよくわかる。

 

でも最近ちょっと考えを変えることにした。

私の人生とはいえ私が社会と接している以上、自分の思うように物事が進まないのは明らかである。そして目の前の未来さえも前もって知ることができないのも残念ながら事実だ。

それならば私にとってはっきりとしている、裏切らないものに目を向ければ良いのではないだろうか。でもそんなものはあるのだろうか?

多分それは自分自身かもしれないと思う。

私が感じたこと、考えたことをどんな時も誤解することも疑うこともそして肩透かしをすることもなく受け止めてくれるのは自分自身だと思うのだ。

長年私は自分自身に自信がなく、自分の声に耳を傾けることに懐疑的だったけれど、自分を信じることがきっと他の共感を呼び、そして未来を垣間見せてくれるのではないかと思えるようになってきた。

 

今日は原嶋亮介さんの作品を紹介しよう。

これは古い片口と呼ばれる漆器椀である。時代を超えた美しい姿に惹かれる。原嶋さんは古い民具を現代に活かす作品を多く発表しているが、実はその民具の背景に流れている歴史に耳を傾け、そこからインスピレーションを受けた表現を試みている。この椀がぽってりと咲く椿のような日本的で湿り気のある艶やかで華やかな話を原嶋さんの耳に囁いたのだろうか。

 

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