ギャラリストのよしなごと

必要のない情報

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小説というのは、“何を書き”、“何を書かないか”が全て書き手に委ねられている。

何を当たり前なことを言い出すのだ、と思われるかもしれないが、まぁお付き合い願いたい。

背景の描写について少し考えてみよう。

映画の場合、そこに役者を立たせただけで、観る人に隠しようのない背景が既に設定されてしまう。だからこそ、映画を作る人たちはその場面に適する背景を微に入り細に入り徹底的に作り込んだりするのだろう。

小説の場合は、背景に何が置かれているか、空の色は何色であるかなど、必要とあれば言葉を尽くして描写はできるけれど、別段その場面に重要な役割を持っていないならば、すっ飛ばしてしまうことのできる自由さがある。

そうやって必要のない情報を切り捨てることで、大事な部分を際立たせるってことは小説の手法とすればごく当然のことだろうけれど、この情報過多な現代社会の中で生きる私たちにはもはや情報を切り捨てるなんてことはそうやすやすとできなくなってしまっていると思う。情報の海の中に首まで浸かってアップアップと喘いでいる、というのが本当のところではないだろうか。

 

我が家のブラウン管テレビが壊れたのは、私が9歳の時だ。そしてそれ以来新しいテレビを買い替えることもなく過ぎた。当時家にテレビのない家など滅多になかったはずだが、私は元々テレビを見る習慣もなく暮らしていたからそれほど不自由とも感じなかったように思う。

その代わり私が夢中になったのはラジオだ。

当時のラジオ放送で一番お気に入りだったのは相撲中継である。なぜならアナウンサーの一言一言がまるで私の頭脳の中に映像を作り上げてくれるようだったからである。

頭の中に張り巡らされたスクリーンに相撲力士たちが激しくぶつかり合う様が映し出される。彼らの汗が空中で粒になって飛び散り光り輝くのが浮かぶ。

ラジオという聴覚だけを頼りにする情報で、私は最高の場面を次々に自分で作り出した。

もしかしたら私の映し出した頭の中の映像と、事実は違っていたかもしれない。もしかしたらそんなに相撲力士たちの試合はドラマチックではなかったかもしれない。

でもそんな違いなんてどうでもいい。

私は少女時代に自分の想像の羽を精一杯に広げ、自分の世界を作り上げることができたのだから。

そして今私は、あの頃の夢みがちな自分を少し羨ましく感じているのである。

 

今日も横野健一さんの作品を紹介させていただきたい。

彼の作品は赤と白の2色で作品を作り上げることでその複雑で細かな描写が特徴のモチーフに不思議な落ち着きを与えている。色数を減らしたことで、ますます彼の作品のストーリーにミステリーな部分が加味され、見る人それぞれに奥深い意味を感じさせることに成功しているのではないかと私は思う。

 

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